近江史を歩く

50.最澄と比叡山(大津市坂本)



 
 803年、唐へ向かった4隻の遣唐使船は嵐に遭い離れ離れになる。1隻目は、無事長安へ。2隻目は、福州へ難破した後、長安へ。3・4隻目は、暴風雨で沈没。1隻目に乗っていたのが最澄。大学教授クラスの待遇。2隻目には空海。名もなき留学僧というところか。唐に着いた最澄は、仏教の総合大学ともいうべき天台の教えを学び、1年後に膨大な経典を持ち帰る。一方、空海は狙いを密教一本に絞り3年後に帰国。新しい時代の新しい仏教がこの二人の天才によってもたらされた。


 
 坂本にある生源寺。最澄の誕生寺である。近江国分寺に入り14歳で得度。しかし、奈良旧仏教への強い反発から一人比叡山に入る。孤独な隠遁者に思いがけない幸運が訪れたのは、桓武天皇との出会いだった。「百済王等は朕が外戚なり」。渡来系氏族の力をバックに平安京に都を定めた桓武天皇。最澄もまた近江の渡来人系氏族・三津首(ミツノオビト)の出身であった。新しい時代を切り拓くべく、最澄は唐へ向かった。巨大な理論体系を持った天台、禅、戒律、密教などを学び帰国する。そして、旧仏教徒との果敢な論戦が始まる。



 最澄はすべての人間には本来具わっている大切な宝物「仏性」があるとした。それを引き出し磨き上げ、「一隅を照らす」人間を育てていくこと。それこそ自らの使命と考えた最澄は、新たに大乗戒壇の設立を訴えた。比叡山は、平安京の東北すなわち鬼門にあたる。そこに王城鎮護の寺を開いた。大乗戒壇の設立が許されるのは最澄の死後になる。延暦7年(788年)に開創された一乗止観院は、最澄死後その年号を取り「延暦寺」という寺号が与えられた。天台法華の他、密教・禅・念仏も行なわれ、仏教の総合大学の様相を呈したのがこの比叡山延暦寺。ここから、円仁・円珍・良忍などの名僧、浄土宗の法然・浄土真宗の親鸞・臨済宗の栄西・曹洞宗の道元・法華宗の日蓮など新仏教の開祖たちが巣立っていった。1994年、古都京都の文化財としてユネスコ世界文化遺産に登録されている。



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