近江史を歩く

30.聖武、その夢の跡(甲賀市信楽町)



 
 740年、九州で起こった藤原広嗣の乱の直後、聖武天皇は突如東国巡幸に出る。平城京を出て、伊賀・伊勢・美濃を通り、近江(琵琶湖東岸)を通って山城の恭仁京に入る。出発点は違うが、大海人皇子が壬申の乱で兵を進めた道程をなぞったかのようである。平城京には戻らず、恭仁京で造都事業を始めた。ところが一転、摂津の難波にも都城を造り始め、744年には公式に難波が都となる。それもつかの間、聖武は信楽(続日本紀では紫香楽と表記)に戻り、745年には、紫香楽が都であることが宣言された。


 
 聖武天皇が大仏を建立しようと思い立ったのは、740年に河内国の知識寺で盧舎那仏を見て感動したからだとされる。藤原広嗣の乱の直前、激しい政治対立の時であった。742年、聖武は恭仁京と紫香楽を結ぶ道路工事を命じた後、紫香楽に離宮を造営している。この離宮が「紫香楽宮」である。743年、聖武は紫香楽の地に盧舎那仏を造営することを発願。おそらく、紫香楽に大仏を造立することを決め、まず道路を開き、ついで離宮を造営したと考えられる。甲賀寺に盧舎那仏像の体骨柱が建てられた。744年、宮名が「紫香楽宮」から「甲賀宮」へ。745年、離宮ではなく正式に都となる。実態は不明ながら京(紫香楽京)の範囲が設定されていた可能性もある。



 かつては、信楽にある黄瀬・牧地区の遺跡が紫香楽宮跡と考えられていた。しかし、北約1kmに位置する宮町遺跡から大規模な建物跡が発掘され、これが紫香楽宮の中枢部であると確定された。黄瀬・牧地区の遺跡の方は、甲賀寺跡であるという説が有力である。中門・金堂・講堂・塔院からなる東大寺式伽藍の寺跡である。紫香楽宮は遷都直後から、周辺の山々で火事が頻繁に起こっていた。追いうちをかけるように大地震が起こる。745年、国家的プロジェクトは挫折し、聖武は追われるように平城京へ戻る。平城京出発から、すでに5年近くの歳月が過ぎていた。平城京に戻った聖武は、ほとんど政治に対する意欲を喪失し、娘の孝謙に天皇位を譲る。甲賀寺の盧舎那仏計画は途中で中止され、東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)として改めて完成されることになる。 


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