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26.朝鮮人街道(野洲〜彦根)
27.消えた銅鐸の謎(野洲市大岩山)
28.和中散本舗(栗東市六地蔵)
29.雨森芳洲と誠信外交(長浜市高月町雨森)
30.聖武、その夢の跡(甲賀市信楽町)
31.石塔寺石塔のルーツ(東近江市石塔町)
32.百済滅亡と鬼室集斯(日野町小野)
33.天智天皇と大津遷都(大津市錦織遺跡)
34.鉄砲伝来と国友村(長浜市国友町)
35.石山寺と平安女流文学(大津市石山寺)
36.治水の先覚者藤本太郎兵衛(高島市新旭町)
37.青い目の近江商人(近江八幡市)
38.近江の芭蕉(大津市義仲寺)
39.安羅伽耶の里(草津市安羅神社)
40.継体天皇の誕生(高島市)
41.湖北の古代豪族息長氏(米原市)
42.中世の自治村落「惣」(長浜市菅浦)
43.花の生涯・井伊直弼(彦根市)
44.京極氏は清滝にかえる(米原市)
45.湖北己高山と観音の里(長浜市)
46.近江古都幻想(草津市)
47.秀吉の五奉行・長束正家(甲賀市水口城)
48.邪馬台国近江説(守山市伊勢遺跡)
49.六角氏と観音寺城(近江八幡市安土町)
50.最澄と比叡山(大津市坂本)
30.聖武、その夢の跡(甲賀市信楽町)
740年、九州で起こった藤原広嗣の乱の直後、聖武天皇は突如東国巡幸に出る。平城京を出て、伊賀・伊勢・美濃を通り、近江(琵琶湖東岸)を通って山城の恭仁京に入る。出発点は違うが、大海人皇子が壬申の乱で兵を進めた道程をなぞったかのようである。平城京には戻らず、恭仁京で造都事業を始めた。ところが一転、摂津の難波にも都城を造り始め、744年には公式に難波が都となる。それもつかの間、聖武は信楽(続日本紀では紫香楽と表記)に戻り、745年には、紫香楽が都であることが宣言された。
聖武天皇が大仏を建立しようと思い立ったのは、740年に河内国の知識寺で盧舎那仏を見て感動したからだとされる。藤原広嗣の乱の直前、激しい政治対立の時であった。742年、聖武は恭仁京と紫香楽を結ぶ道路工事を命じた後、紫香楽に離宮を造営している。この離宮が「紫香楽宮」である。743年、聖武は紫香楽の地に盧舎那仏を造営することを発願。おそらく、紫香楽に大仏を造立することを決め、まず道路を開き、ついで離宮を造営したと考えられる。甲賀寺に盧舎那仏像の体骨柱が建てられた。744年、宮名が「紫香楽宮」から「甲賀宮」へ。745年、離宮ではなく正式に都となる。実態は不明ながら京(紫香楽京)の範囲が設定されていた可能性もある。
かつては、信楽にある黄瀬・牧地区の遺跡が紫香楽宮跡と考えられていた。しかし、北約1kmに位置する宮町遺跡から大規模な建物跡が発掘され、これが紫香楽宮の中枢部であると確定された。黄瀬・牧地区の遺跡の方は、甲賀寺跡であるという説が有力である。中門・金堂・講堂・塔院からなる東大寺式伽藍の寺跡である。紫香楽宮は遷都直後から、周辺の山々で火事が頻繁に起こっていた。追いうちをかけるように大地震が起こる。745年、国家的プロジェクトは挫折し、聖武は追われるように平城京へ戻る。平城京出発から、すでに5年近くの歳月が過ぎていた。平城京に戻った聖武は、ほとんど政治に対する意欲を喪失し、娘の孝謙に天皇位を譲る。甲賀寺の盧舎那仏計画は途中で中止され、東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)として改めて完成されることになる。
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