近江史を歩く

27.消えた銅鐸の謎(野洲市大岩山)



 
 野洲市は全国有数の銅鐸出土地。弥生の森歴史公園の中には銅鐸博物館がある。1881年8月、大岩山に遊びに行った子どもが3個の唐金古器物(銅鐸)を発見。翌日、11個が見つかり合計14個となる。東京国立博物館に持ち込まれ、2個は博物館所蔵となった。この内の一つが日本最大の銅鐸である。残りは遺失物として払い下げられたため、結局それらは全て国内外に散逸してしまった。1962年、新幹線建設工事で大岩山からの土砂採取中に、合計10個の銅鐸が発見。関係者の協力を得て、無事滋賀県の所蔵となった。


 
 銅鐸は、弥生時代の紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって作られ、用いられたものである。中国大陸を起源とする鈴が、朝鮮半島から伝わり、独自に発展したというのが現在の定説である。1世紀末ごろを境にして急に大型化し、3世紀になると突然作られなくなり姿を消す。用途は定かではない。音を出す「聞く銅鐸」から、地面か祭殿に飾られた「見る銅鐸」へと変化したのではないかと言われている。



 銅鐸の謎とは何か。銅鐸がムラや墓から出土することは稀で、多くが小高い丘陵の斜面に、まとまって埋められている。埋まったのか、埋めたのか、それはなぜなのか。諸説飛び交うこととなる。どちらにしろ、弥生時代後期から古墳時代へ。ムラからクニへ政治統合が進む中でのことである。銅鐸戦利品説、銅鐸配布説、滅ぼされた銅鐸民族の遺品説など、いずれも弥生後期の戦乱が背景にあるようだ。この銅鐸祭祀と入れ替わって姿を現わすのが、「鏡」を用いた祭祀であり、それを使う政治集団である。野洲にも、三上山を仰ぐ大きな政治勢力が登場してくる。大岩山古墳群など三上山山麓周辺の古墳がそれを示している。造られたのは3世紀から6世紀。まさに銅鐸時代の直後である。



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