近江史を歩く

29.雨森芳洲と誠信外交(長浜市高月町雨森)



 
 長浜市高月町雨森にある「東アジア交流ハウス」。雨森芳洲(アメノモリホウシュウ)の生家跡に設けられたこの記念館には、韓国からも大勢の人たちが訪れる。
 雨森芳洲は、1668年に湖北伊香郡雨森村の町医者の子として生まれた。京都の高森医師のもとで勉強するが、18歳の時、学者になろうと決意し江戸へ出る。朱子学者木下順庵の門に入る。門弟には新井白石などがいた。新井白石とは、後に論争を交わすことになる。


 
 1689年、師木下順庵の推薦で、対馬藩に仕官。初めは江戸の対馬藩邸で殿様に学問を教えていたが、1692年に外交官として対馬へ赴任した。外交においては相手の心を知ることが大切である。そのためには、言葉が通じなければならない。そう考えた芳洲は、1702年、初めて釜山へ渡り朝鮮語を学ぶ。日本で最初の朝鮮語会話の入門書「交隣須知」を編纂している。1711年と1719年に朝鮮通信使が派遣された際には、芳洲も江戸へ随行している。申維翰(シン・ユハン)の「海遊録」には、芳洲の活躍が描かれている。



 隣人が互いの文化を理解し、互いに誠実に交われば、信義も信頼もおのずから生じるはず。このような「誠信交隣」の立場を貫いた雨森芳洲の外交姿勢は、対馬の人からも朝鮮の人からも大きな信頼を得た。晩年は、家督を長男に譲り、自宅に私塾を設けて著作と教育の日々を過ごした。1755年、対馬厳原日吉の別邸で死去。享年88歳。再び、故郷近江に戻ることはなかった。「互いに欺(アザム)かず、争わず、真実をもって交わることが肝要にて候」



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