近江史を歩く

47.秀吉の五奉行・長束正家(甲賀市水口城)



 
 草津市長束(ナツカ)町。平安時代、この辺りには比叡山の寺領があった。それを「束ねる長」=「長束(ナツカ)」が名の由来である。春日神社南側に隣接する土地は、大蔵屋敷跡とされる。この地に生まれた長束正家(ナツカマサイエ)。豊臣秀吉の五奉行の一人として大蔵大輔となり、水口城主にもなった人物。関白太政大臣となった豊臣秀吉は、五奉行の職制を定めた。その中で増田長盛・石田三成・長束正家の三人までもが近江出身である。いずれも武官ではなく文官として活躍した。


 
 正家は初め丹羽長秀に仕えたが、後にヘッドハンティングされ豊臣家直参の家臣となる。その高い算術能力を買われて財政を一手に担い、豊臣氏の蔵入地の管理や太閤検地の実施に当たった。近江水口城主となり五奉行にも名を連ねた。太閤秀吉死後、石田三成と徳川家康の対立は表面化していく。最初、正家は家康側にいた。1600年。徳川家康は会津の上杉景勝討伐のため大坂城を出発する。留守中の石田三成挙兵を誘う目論見だ。家康が水口城近くまで来た時、甲賀者が密告に来た。水口城茶室の床に落とし穴が仕掛けられていると言うのだ。家康は水口城をやり過ごした。真相は不明だが、これで正家は反家康側となる。



 関ヶ原の合戦。西軍敗色濃厚と見た正家は戦線離脱。からくも水口城に帰還し篭城。寄せ手の池田軍に本領安堵を約束され、城から出たところを欺かれ捕縛。そして、切腹。首は京都三条橋に晒され、莫大な財産は池田家に奪われた。正家を非業の死に追いやった池田輝政は論功行賞で播磨姫路に。その後、姫路城・池田家に怪異・惨劇が押し寄せることとなる。池田家は幕府に国替えを請願し、姫路から岡山へ移ることになる。
 草津市長束町春日神社。土地の人が天神さんと呼ぶ祭神がある。実は唐冠をかぶった秀吉の像らしい。家康をはばかった正家が密かに祀ったものだと伝えられている。



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