近江史を歩く

39.安羅伽耶の里(草津市安羅神社)



 
 古代朝鮮の三国時代。三国とは、新羅・百済・高句麗である。朝鮮半島南部に分立していた国々は、馬韓・弁韓・辰韓に統合されていく。辰韓を母体として新羅が、馬韓を母体として百済が誕生。新羅と百済の中間に位置する弁韓地域は、国家形成が遅れ、「伽耶」と呼ばれる小国連合を作る。新羅と伽耶は、太陽信仰の影響を受けた民族。一方、高句麗と百済はいずれも扶余から出たとされ、檀君を信仰する熊信仰の民族であった。


 
 滋賀県草津市に2つの安羅神社がある。草津市穴村にある安羅神社の祭神は、新羅の王子と言われる天日槍(アメノヒボコ)。ヒボコの従者は、この地にとどまり、医術・陶器・土木・鉄工業をもたらしたとされる。伽耶の中の一つの国であった安羅(阿羅)は、安羅伽耶とも呼ばれていた。伽耶諸国の中で中心的な位置を占めていたのが金官伽耶。現在の金海(キメ)市付近にあった。金官伽耶の西側にあるのが安羅。現在の咸安(ハマン)である。金官伽耶の滅亡後は、実質的に伽耶地域を代表していた。倭国は、伽耶系倭人を外交使節として 安羅に派遣し、鉄器や土器の輸入を担当させていたと考えられる。天日槍も、安羅と関わりの深い渡来集団なのかもしれない。



 草津市野村には、もう一つの安羅神社がある。こちらの祭神は「スサノオ」。鳥居の横の社伝を読んでみると、「慶運元年(704)三月、牛頭天王この地に降臨なり、これ当社の創なり」とある。例によって、牛頭天王は、スサノオに習合されていく。社伝の終わりには、「野村、穴村に安羅神社、十里に小安羅神社の鎮座あるは、安羅郷の古へを推想するに足る」と書かれている。古代、このあたり一帯は、安羅(アラカヤ)の人々の邑里であったのかもしれない。福井県のJR敦賀駅前に巨大な像が建っている。「ツヌガアラシト」像。日本書紀によると、崇神天皇の代に額に角の生えた人が、船に乗ってやってきた。そこで、その地を角鹿(ツヌガ)と名付けた。その人の名は、意富加羅(オホカラ)国の王子で都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)。伽耶は加羅とも呼ばれ、意富加羅=大伽耶=安羅である。ツヌガアラシトと天日槍の伝承もよく似ている。敦賀は、日本海の玄関口。そして、近江への入り口でもあった。


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