近江史を歩く

36.治水の先覚者藤本太郎兵衛(高島市新旭町)



 
 琵琶湖には一級河川だけでも118本の河川が流入している。一方、琵琶湖から流れ出る川は、瀬田川ただ一つである。大雨が降ると行き場を失った水が琵琶湖に滞留し、湖水面の上昇で沿岸が浸水する。近江の人々は「水込み」と呼ばれる浸水被害に悩まされた。琵琶湖沿岸の「水込み」被害をなくすためには、瀬田川の川底を浚渫し、流出水量の拡大を目指すことが必要であった。


 
 高島市新旭町の湖岸(夕暮原浜)に、「治水の先覚者」藤本太郎兵衛の像が建っている。江戸時代後期、深溝村(現高島市新旭町深溝)の庄屋であった藤本太郎兵衛は、三代にわたり琵琶湖治水に命をかけた。一代目太郎兵衛(直重)は湖辺の村々に、川さらえを呼びかけ奔走。177ヶ村を取りまとめ、幕府からようやく許可を得る(1784年)。しかし人夫の統制が取れず、工事は2年で中断となる。二代目太郎兵衛(重勝)は、委任状を持ち、打ち首覚悟で単身江戸へ。老中松平定信に、川さらえの許可を得るべく直訴するが、取り上げられず(1791年)。三代目太郎兵衛(清勝)は、瀬田川下流の反対者の説得や、幕府への嘆願を続け、ようやく「御救(オスク)い大浚(オオサラ)え」と呼ばれる大事業を成し遂げた(1831年)。



 親子三代に渡る50年余の歳月。私財を投げ打ち、文字通り命をかけた「たたかい」であった。しかし、年貢の増収が見込まれるにもかかわらず幕府の態度は一貫して冷淡であった。その理由の一つが供御瀬(クゴノセ)の存在である。現在の南郷洗堰付近の浅瀬。瀬田川を歩いて渡れる地点として、大橋が敵に落とされた場合に備える軍事上の秘密場所であった。官僚機構の怠慢と軍事機密による民衆生活の破壊は、現在に繋がるものがある。高島市新旭町深溝にある藤本太郎兵衛生家近くの「伊庭吉菓舗」。昔ながらの手作りの菓子を作っているこの店では、藤本太郎兵衛にちなんだ「太郎兵衛饅頭」が人気である。


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