近江史を歩く

43.花の生涯・井伊直弼(彦根市)



 
 安政7年(1860年)3月3日朝、春には珍しい大雪だった。江戸城桜田門外。一人の浪士が直訴と見せかけ大老の行列に近づいた。それを合図に潜んでいた水戸浪士がいっせいに切りかかった。不意をつかれた彦根藩士。大老は、駕籠から引き出され首を打たれた。いいかもと雪の寒さに首を絞め。大老・井伊掃部頭直弼(カモンノカミナオスケ)の最後だった。
 井伊直弼は、彦根城二の丸で生まれる。14男で側室の子。17歳から32歳までの15年間を捨扶持の部屋住みとして過ごす。自らを花の咲くことのない埋もれ木に例え、屋敷を「埋木舎(ウモレギノヤ)」と名付けた。


 
 世捨て人のように暮らしながらも、長野主膳に国学を学び、茶道・和歌・鼓・禅・槍術・居合術などを学んだ。風流に生きる姿から「チャカポン=茶・歌・鼓」とあだ名された。ところが偶然のいたずらか、二人の兄が立て続けに死亡し、ついに彦根藩主となる。ペリー率いる「黒船」が浦賀に現れるのは、2年半後だ。外圧に揺れる中、直弼は幕府の大老に就任(1858年・44歳)。日米修好通商条約を強引に締結した。開国である。反対勢力に対する血の粛清が開始される(安政の大獄)。



 安政の大獄後、直弼は自分の姿を描かせ、先祖の墓がある彦根・清凉寺に納めた。絵の上に書かれた和歌、「あふみの海 磯うつ浪の いく度か 御世に心を くだきぬるかな」。世の中のために心を尽くしやり遂げたという思い、そして迫り来る死への覚悟。ついに「桜田門外の変」が起こる。血がしみこんだ土は彦根に運ばれ、天寧寺に埋葬された。今そこには供養塔が建てられている。「開国」を断行した直弼の判断が、英断なのか独断なのかは評価が分かれる。しかし、結果的には幕府を倒した明治政府も直弼の外交路線を踏襲することになるのだ。多くの血を流した「尊皇攘夷」というスローガンは何だったのか。踊らされたものと躍らせたもの。歴史の真実は、冷静に判断しなければならない。



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