近江史を歩く

33.天智天皇と大津遷都(大津市錦織遺跡)



 
 「白村江の戦い」(663年)で倭・百済連合軍は唐・新羅連合軍に惨敗し、百済復興は失敗に終わった。この遠征の途中、斉明女帝は九州で没している(661年)。中大兄皇子は、皇太子の地位のまま7年もの間、国事を執り続ける。百済復興戦争の敗北は、倭国に大きな脅威を与えた。北部九州から瀬戸内海沿岸にかけて多数の朝鮮式山城が築かれ、大宰府には水城(ミズキ)という防衛施設も造営された。このような状況下、中大兄皇子は都を飛鳥から近江大津へと移す(667年)。


 
 大津宮の所在地をめぐっては、長年論争があった。1974年の大津市錦織地区の発掘調査により、13基の柱跡が見つかり、その後の調査でそれらは内裏南門と宮殿回廊と解明されていく。1979年には、この地が近江大津宮の跡地として国の史跡に指定された。遷都の翌年(668年)1月、中大兄皇子はようやく即位して天智天皇となる。日本書紀によるとこの遷都には大きな不満があり、昼夜を問わず出火があったという。なぜ近江の地だったのか?国外の脅威に対抗しうる政治体制を新たに構築するため、抵抗勢力の多い飛鳥から離れ、この大津を選んだとする説が有力である。また、この地に住み着いた百済系移民や渡来系氏族との関わりがあるのかもしれない。



 遺跡近くにある近江神宮は、1940年に天智天皇を祭神として創祀されたものである。「小倉百人一首」の第1首目が天智天皇であったことから、競技かるたの聖地になっている。錦織遺跡には、柿本人麻呂の挽歌の碑が建っている。「天皇の 神の尊の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言えども 春草の 茂く生いたる 霞立つ 春日の霧れる ももしきの 大宮所 見れば悲しも」(天皇がお住まいであった大宮は、ここだと聞いたけれども、大殿は、ここだと言うのだけれども、春草が生い茂るばかりで、霞が立ち春の日が霞んでいる大宮跡を見るのは悲しいことだ)。天智天皇が近江大津宮に都を置いた667年から、大友皇子が壬申の乱で滅亡する672年までの期間を「近江朝」と言う。わずか5年のことであった。


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