近江史を歩く

35.石山寺と平安女流文学(大津市石山寺)



 
 近江八景の一つが「石山の秋月」。平安人は「石山詣で」と称して、石山寺参詣の後、境内で月見の宴を楽しんだ。本堂は珪灰石という巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名の由来となる。「石山寺縁起絵巻」によると、東大寺大仏造立の黄金を得るため、聖武天皇は良弁に祈らせた。夢のお告げで石山を訪れた良弁は巨大な岩の上に草庵を建て、観音像を安置する。程なく陸奥国から黄金が産出された。ところが、観音像は岩山から離れない。やむなくそれを覆うように堂を建てたのが、石山寺の創建といわれる。


 
 石山寺は、都から比較的近いこともあって、「石山詣で」は平安貴族のレクレーションの一つであった。ここを訪れた女流文学者も多くいる。紫式部は、瀬田川にきらめく月光の様から光源氏をイメージして、源氏物語の構想を練ったとされる。伝承では、八月十五夜の名月の晩に紫式部が参篭した際、「須磨」「明石」の巻の発想を得たとされる。石山寺本堂には「源氏の間」が造られている。「和泉式部日記」、「蜻蛉日記」(藤原道綱の母)「枕草子」(清少納言)などの文学作品にも石山寺は登場する。



 「更級日記」の作者・菅原孝標女(スガワラノタカスエノムスメ)は、9歳の時に父に連れられ任国上総国に赴く。13歳の時、京へ帰国するところから「更級日記」はスタートする。「更級日記」は、その後の約40年を回想した日記である。13歳の彼女は、美濃から東近江に入り、琵琶湖の南・石山寺の麓を通り、逢坂関を越えて京に到着している。「谷川の流れは雨と聞こゆれど ほかよりけなる(美しく澄み渡っている)有明の月」。42歳のころ石山寺に再び参篭した時に詠んだ歌である。51歳の時、夫を失い、孤独を噛み締める毎日。1000年前の女性たちの思いは、今と何も変わっていないのかもしれない。


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