近江史を歩く

40.継体天皇の誕生(高島市)



 
 近江に生まれた継体天皇の即位は、新たな王朝の始まりであるとする見解が多い。明治以来、大阪府茨木市にある太田茶臼山古墳が継体天皇陵とされてきた。しかし、現在多くの考古学者は、高槻市にある今城塚古墳を継体天皇陵と考えている。6世紀最大の前方後円墳である。北陸・琵琶湖・淀川水系へと繋がっていく、継体のバックボーンがうかがえる。継体の先帝である武烈天皇について、日本書紀は数々の残虐な悪行を書き連ねている。まるで、新王朝樹立の正当性を強調したいかのようである。


 
 高島市安曇川町には継体の父・彦主人王(ヒコウシオウ)の墓と伝えられる田中王塚古墳がある。そのルーツは、琵琶湖対岸の息長氏であると考えられる。継体は、近江国高嶋郷三尾野(現高島市)で誕生した。幼くして、父を亡くし、母の故郷・越前国高向で育てられる。男大迹(オオド)王として、5世紀末の越前・近江を統治していた。武烈天皇死去。跡継ぎがいないため、大伴金村・物部麁鹿火らが協議し、応神天皇5世の孫とされる男大迹王を擁立する。507年、河内国樟葉宮において即位。これが継体天皇。この時、すでに58歳であった。約20年近く大和に入ることができず、526年、ようやく大和に都を定める。この直後、新羅と結んだ「磐井(イワイ)」が、九州北部で大規模な反乱を起こしている。



 高島市は継体の出生の地。父・彦主人王の墓とされる田中王塚古墳の近くに、鴨稲荷山古墳がある。1902年に発見され、巨大な石棺や金銅製宝冠・純金製耳飾りなどの副飾品が出土した。朝鮮半島との関わりが顕著に見られる。被葬者は、継体に后を出した豪族・三尾氏か、それ以上に継体に近い人物なのかもしれない。継体即位後の外交は、明確に親百済路線を強めている。渡来系先進テクノクラート集団を配下に持つ蘇我氏が、この時期に姿を現し、台頭していくのも興味深い事実である。和歌山県隅田八幡宮の「人物画像鏡」48字の金石文にある、「男弟王」は継体を、「斯麻」は百済武寧王を指すと言われている。この2人には、想像以上の密接な関係があったのかもしれない。


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