近江史を歩く

31.石塔寺石塔のルーツ(東近江市石塔町)



 
 百済からの仏教公伝には、538年説と552年説とがある。一般的には、538年公伝説が有力とされる。百済聖明王(聖王)の時、高句麗の圧迫のため、都が公州から扶余に移された。これが、538年のこと。百済から倭国への仏教公伝は、百済の外交上の戦略に他ならない。百済仏教の中心が、扶余にある定林寺。そして、その代表的な建造物が韓国石塔の始原様式といわれる五層石塔である。


 
 東近江市にある石塔寺(イシドウジ)。そこにある三重石塔は、韓国扶余の定林寺五層石塔の影響を明確に受けている。石塔寺は、天台宗の寺院。境内には、阿育王塔と呼ばれる三重石塔を中心に、数万基の石塔や石仏が並ぶ。三重石塔は高さ7.5mの巨大な花崗岩製のもので、石塔としては日本最大かつ最古のものである。7世紀後半の造立とみられる。その後、石塔寺は阿育王塔の寺として信仰を集め、近隣の村人たちにより三重石塔の周辺に何万という石仏や石塔が作られた。



 近江湖東地域は、古来より渡来人と関係の深い場所である。「日本書紀」によれば、天智天皇8年(669年)、滅亡した百済からの渡来人700名余が近江国蒲生野へ移住したと記されている。石塔寺の三重石塔も、百済系渡来人によって造立されたとの見方が一般的である。同族意識のシンボルとして、母国の様式を真似て作られたのではないだろうか。渡来人たちがもたらした高度な文化や新技術。それらが日本の古代国家形成に与えた影響は、計り知れないものがある。


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