近江史を歩く

34.鉄砲伝来と国友村(長浜市国友町)



 
 1543年、中国船が種子島に漂着。この船に乗っていたポルトガル人が伝えたのが「種子島」(鉄砲)。この時の領主種子島時堯(トキタカ)は、15歳の好奇心旺盛な少年。鉄砲2挺を譲り受け、その内の一挺を分解させ島の鍛冶屋に複製を作らせた。なんと、種子島は製鉄の島だった。その後、堺の商人により鉄砲の製造技術は、根来・雑賀・堺、そして国友に伝わる。江州国友は古くから刀鍛冶が有名な土地。1544年、将軍足利義晴の命で作ったのが国友鉄砲鍛冶の始まりである。


 
 鉄砲の普及はそれまでの戦法を大きく変化させ、戦国時代を終結させた。国友は、信長・秀吉・家康の庇護のもと火縄銃生産の地位を確立し、江戸時代には幕府直轄の銃砲製造所となった。「国友」の名は単なる地名ではなく、国友の工人「国友鍛冶」、国友で生産される銃「国友筒」などのブランド名となる。鍛冶銘は「国友」姓で統一され、村がいわば一つの工業団地となった。堺の銃が豪華な装飾を施したのに対し、国友の製品は「機能美的」に洗練された秀作が多い。しかし太平の世になると、さすがに鉄砲の受注は少なくなり、鍛冶師たちは金工彫刻や花火などに活路を見出していった。



 江戸時代後期、活気を失いかけた国友に「東洋のエジソン」と称された国友藤兵衛一貫斎が登場する。国友一貫斎は秘伝の鉄砲製法を公開し、気砲(空気銃)や反射望遠鏡など数々の発明を重ね、国友の技術と知識を発展させていった。元々幕府御用達の鉄砲鍛冶だった一貫斎だが、江戸で反射望遠鏡を見るなり、さっそく自作の反射望遠鏡を作り上げる。それを世界最高水準の精度にまで改良し、月・土星や太陽の黒点などの天体観測を行った。日本天文学発祥の地とも称される国友村。現在、その鉄砲技術は、長浜八幡宮の祭りの曳山(山車)や長浜仏壇の金具に生かされている。


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