近江史を歩く

48.邪馬台国近江説(守山市伊勢遺跡)



 
 邪馬台国近江説の引き金となったのが、守山市伊勢遺跡。弥生時代後期の集落としては、佐賀県吉野ヶ里遺跡に匹敵する国内最大級の遺跡である。1981年、宅地造成工事に先立つ試掘調査によって発見。遺跡の中に、直径約220mの円を描くように配置された約30棟の建物跡があり、その円の内側には楼閣、祭殿などがあったようだ。魏志倭人伝に記載される邪馬台国を構成するクニの数30とぴったり符合する。確かに卑弥呼を思い浮かべてしまう。


 
 このあたりは多くの弥生遺跡が連なり、「弥生遺跡の銀座通り」とも言われる。倭国大乱の後、卑弥呼が共立されたとされる頃、伊勢遺跡は突然現れ巨大化している。大規模な遺跡にも関わらず、大勢の人たちが日常的に生活していたような痕跡が見当たらないのも特徴。より大きな政治的統合を必要とした各地のクニ連合が、共同で生み出した祭祀空間と考えられる。魏志倭人伝に書かれた「卑弥呼の居処」と似た構成である。3世紀末から4世紀初めに急速に発展した大和の纏向遺跡に比べ、野洲川のデルタ地帯にある伊勢遺跡付近は早くから米作が発達していた。三上山を共通の宗教的シンボルとする先進地域がここに存在していた。



 野洲郡守山村と栗太郡物部村が合併してできたのが旧守山町。火祭りで有名な守山市勝部神社は物部神社とも呼ばれ物部氏に由来する。この地はかつて物部郷と呼ばれていた。物部氏の祖はニギハヤヒ。天孫降臨したニニギに先だって、高天原から降りてきた天孫族とされる。神武直系を正統とするその後の権力とは異質である。数多くの銅鐸を出土したこの地域、その銅鐸文化を担ったのが物部氏であるという説もある。少なくともこの地にヤマト政権とは別の、何らかの大きな政治勢力があったことは間違いない。これを古事記・日本書紀から抹殺された「邪馬台国」と考えるのは、確かに魅惑的ではある。「邪馬台国近江説」は「ヤマト」中心史観を相対化する一石なのだろう。



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