近江史を歩く

26.朝鮮人街道(野洲〜彦根)



 
 秀吉の朝鮮侵略は、大きな傷跡を残した。江戸幕府は、対馬の宗氏を介して関係改善を図る。国書偽造という涙ぐましい努力の末、国交は回復。将軍の代替わりに、朝鮮から通信使が来日した(1607〜1811、12回)。朝鮮通信使は、学者・医者・画家などを含む総勢500人の大使節団。それは、貴重な文化交流の場でもあった。


 
 通信使はソウルを出発。プサンより対馬へ。海路、瀬戸内海・淀川を経て京都へ到着する。その後は陸路で、中山道・東海道を通過し江戸へ。この長い道のりの中に、「朝鮮人街道」と呼ばれる道がある。現在の野洲市小篠原から安土・近江八幡を経て彦根市鳥居本までの約40kmがそれである。京都を発った通信使一行は、大津で昼食を取り、守山宿の東門院で宿泊。翌日は、近江八幡の本願寺別院で昼食を取り、彦根宗安寺で宿泊。翌朝、鳥居本より中山道に入った。



 なぜ中山道から外れ、この朝鮮人街道というルートが選ばれたのか。@関ヶ原合戦の後、家康が通った「吉例の道」であり、代々の将軍上洛路でもあった。A大規模な行列の宿泊・休憩のため、都市的機能のある八幡・彦根を経由する道を選んだ。B参勤交代の行列との混雑を避けるため。その他、湖畔の風光明媚な道を見せるためという説や、日本の広さを誇張するためにわざと曲折に富む道を選んだなどという説まである。幕府にとってこの道は、特別の道であると言う意識があったのは確かである。やはり、通信使を重んじたゆえであろう。江戸時代、朝鮮は対等な外交関係を持った唯一の国だった。友好の歴史は近代に入って破られる。



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