近江史を歩く

49.六角氏と観音寺城(近江八幡市安土町)



 
 近江源氏・佐々木氏は、六角・京極・大原・高島の四家に分かれる。南近江を支配していたのが宗家・六角氏。六角定頼の時、北近江の戦国大名・浅井氏を支配下に置く。近江蒲生郡観音寺城を本拠とし、六角氏の最盛期を創出した。しかし定頼死後、息子・六角義賢(ヨシカタ)は野良田の戦いで浅井長政に敗北。義賢は出家する。跡を継いだ義治は、1563年に六角氏の有力な重臣・後藤賢豊を観音寺城内で暗殺。重臣の筆頭格であり人望も厚かった賢豊の暗殺は六角氏の家臣団に大きな衝撃を与えた。


 
 この事件に不満を抱く一部家臣団は、六角義治と父・義賢を観音寺城から追放。その後、蒲生定秀・賢秀親子の仲介により、義賢・義治父子は観音寺城に復帰した。この時に署名させられたのが「六角氏式目」。六角氏と家臣団との契約。近代法的ルールで当主権限は制限された。この「観音寺騒動」を好機と捉えた織田信長。1568年、上洛途上の南近江に侵攻。観音寺城を包囲する。戦端が開かれてから1日も立たずに箕作城と和田山城が落ちた。六角義賢・義治親子は居城観音寺城を捨て、夜陰に紛れて甲賀へ落ち延びていった。その後、義賢と義治は甲賀郡の石部城に拠点を移し、信長に対してゲリラ的に抵抗するが、次第に歴史の表舞台から遠ざかっていった。



 繖山(キヌガサヤマ) 山頂近くに位置する観音正寺。聖徳太子がこの地を訪れ、自刻の千手観音を祀ったのに始まるという。六角氏は、この繖山に巨大山城・観音寺城を築き、石垣を使用した100ヵ所以上の郭を配置した。織田信長の軍勢に攻められ落城後、数年して観音正寺も焼き討ちに遭い全焼した。織山のふもとにある石寺は、六角氏により日本で最初に楽市が開かれた場所として知られる。出家して六角承禎(ショウテイ)と名乗った義賢は、その後キリシタンの洗礼を受け、天下を掌握した豊臣秀吉の御伽衆となる。秀吉が死去した1598年に死去。78歳。嫡男義治も晩年は豊臣秀頼の弓術師範としてその名を残すことになる。



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