近江史を歩く

46.近江古都幻想(草津市)



 
 近江は、奈良に次ぐ古代の聖地。阿星山三千坊、金勝三千坊など比叡山に匹敵するくらいの巨大な法域が存在した。甲賀寺、花摘寺、雪野寺などの大寺院が近江野のあちこちに堂塔をそびえさせる姿は威容を誇ったことだろう。草津市下物(オロシモ)町にある「花摘寺廃寺跡」。この近郊の湖岸沿いの地域には、白鳳時代の寺院遺跡が密集している。現在の天満宮周辺一帯が花摘寺廃寺跡とされている。伽藍配置は、四天王寺様式に似ているらしい。発掘調査で、いくつかの礎石が発見された。一辺約180cmの石造物は、中央に30cm径の穴があり、塔の柱の礎石であったと思われる。これが塔の心礎だとすると、塔の高さは約42m。12階建てビル位の高さになる。


 
 花摘寺跡付近には、多くの廃寺群が連なる。花摘寺跡(下物町)、下寺廃寺跡(下寺)、片岡廃寺跡(片岡)、大般若寺跡(志那中)、橘寺跡(吉田)、安国寺跡(芦浦)、上寺廃寺跡(上寺)、旧宝光寺跡(北大萱)、笠寺跡(南笠)。その湖岸一帯には、製鉄遺跡や鋳銅跡を含む巨大遺跡群がある。弥生時代から白鳳時代へかけて栄えた古代都市の存在を想像させる。それは野洲・中主・蒲生野・竜王へと続いた。その中心には大和の三輪山に匹敵する三上山が壮麗な姿を浮かべていた。しかし近江朝以前からあった古代文化の跡は、白鳳期を境としてすっかり滅んでしまう。おそらく壬申の乱のため廃墟となったのであろう。敗者となった壮大な古都の姿は、記紀に載せられることなく歴史の幻となった。



 志那の港。シナは、風を意味する古代の言葉。志那の水郷は、至る所掘割のあるクリーク地帯であった。家々の前の堀江に小船が行き交い、堀江には小橋が架け渡されていた。志那は、新羅から若狭・湖北を経て運ばれてきた外来文化と物資の終着港だったのかもしれない。志那の村々のかなたに、秀麗きわまりない三上山がくっきりと浮かぶ。花摘寺の巨大な堂塔と三上山が並び立つ壮大な風景。海を渡って来た人たちはどのような感慨を持ってそれを眺めただろう。数十もの大寺が立ち並ぶ近江の古都を幻視してみよう。



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