近江史を歩く

32.百済滅亡と鬼室集斯(日野町小野)



 
 蒲生郡日野町小野(コノ)にあった西宮という神社で、江戸時代に石の八角柱が見つかった。そこには、「鬼室集斯墓」という文字が記されていた。朱鳥三年(688年)とあるが、墓石自体は11世紀以降のものらしい。もしかすると、子孫が建て替えたとも考えられる。いずれにせよ、この場所が鬼室神社となり、地元の人たちから「鬼室様」として崇敬されることになる。「鬼室集斯」とは、いったい何者なのか?


 
 660年、唐・新羅の連合軍により、百済は滅ぼされる。落城の際、百済の宮女たちは敵に辱めを受けまいと白馬江に身を投げた。その姿が花の散るようであったことから、飛び降りた断崖は「落花岩」と名づけられた。この直後、百済の高官であった鬼室福信らは、百済復興運動を開始する。百済最後の王である義慈王の王子、余豊璋は倭国に30年近く滞在していた。百済復興のため余豊璋は百済へ戻り、鬼室福信らと合流することになる。しかし、余豊璋と鬼室福信との間には確執が起こり、663年6月、鬼室福信は殺害されてしまう。これにより百済復興軍は著しく弱体化した。倭国と百済復興軍が、「白村江の戦い」で大敗するのは、この年8月のことである。



 9月には百済の貴族・人民が倭国に向かった。鬼室集斯の名はないが、この時に亡命したと思われる。百済復興運動の英雄鬼室福信の子が鬼室集斯である。近江朝廷は礼をもって鬼室集斯を遇し、現在の文部科学大臣に相当する学識頭(フミノツカサノカミ)に任命した。天智天皇8年(669年)に、蒲生郡に移住してきたと考えられる。父の鬼室福信は韓国の扶余郡恩山面にある恩山別神堂に祀られており、日野町と恩山面との間では姉妹都市交流が行われている。


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