近江史を歩く

44.京極氏は清滝にかえる(米原市)



 
 近江源氏・佐々木氏。平安時代中期に近江国蒲生郡佐々木庄に下向した宇多源氏・源成頼の子孫である。源平の争乱で活躍した佐々木氏は、近江国守護として関東より復帰。その後、六角・京極・高島・大原の4つに分家し、近江国内に割拠する。本家に当たる六角氏は織田信長に滅ぼされる。京都京極高辻に館を構えたことが名の由来となった京極氏は、巧みに時代を生き続け、大名として明治維新を迎えることになる。この700年余続く名門京極家が、本貫地とし続けたのが米原市清滝である。


 
 米原は古くから交通の要衝であった。江戸時代の中山道は、旧東山道の東寄りに道がつけられた。中山道の宿場柏原(カシワバラ)の西、旧東山道に栄えていたのが京極氏の拠点「清滝(キヨタキ)」である。この地に京極氏初代・氏信が、京極氏の菩提寺として創建したものが清瀧寺(セイリュウジ)である。境内には、「道誉桜」と呼ばれているシダレザクラがある。婆沙羅(バサラ)大名として名を馳せた5代目京極道誉が植えて愛したことに由来している。六角氏と近江を争った京極氏も、戦国下剋上の時代には家臣浅井氏の台頭により勢力を失墜。ホタル大名と言われた、19代京極高次によって、からくも息を吹き返すことになる。



 京極家はその後、若狭小浜、出雲松江、播磨龍野、讃岐丸亀と転封していく。丸亀藩主・22代京極高豊は、領地の一部と近江清滝の地を交換して菩提寺・清瀧寺の復興をはかり、徳源院と改称した。この時、近隣に散在していた歴代の宝篋印塔を集め、京極家墓所として整備した。現在の名称は、清瀧寺徳源院(セイリュウジトクゲンイン)。政治的拠点を何度も移った京極氏だが、菩提寺だけはこの清滝に構え続けた。それは京極氏にとって、自己の正統性を視覚的に示すモニュメントであり、物理的・精神的拠点として現在に至っている。



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