近江史を歩く

25.湖北長浜と三人の秀勝(長浜市長浜城)




 織田信長の小谷攻め。浅井長政は自決。落城直前に、信長の妹「お市」と三人の娘は救出される。秀吉はこの戦功により浅井氏の領地を与えられ、 初めて城持ちの大名となる。交通の要衝であった今浜の地に城を築き、名を「長浜」と改めた。町は小谷からそのまま移され、城下が開かれていった。秀吉の出世城と呼ばれた長浜城だが、豊臣氏滅亡後に廃城となる。石垣・櫓などは彦根城に移築された。現在の長浜城は、1983年に建てられた模擬天守である。



 長浜市妙法寺にあった一枚の肖像画。現在は焼失してしまったこの絵の人物が、羽柴秀勝とされる。長浜城主時代、秀吉は南殿と呼ばれる女性との間に男子を得たといわれている。竹生島宝厳寺には、石松丸・南殿の名が記帳されている。この石松丸が、秀吉の子秀勝とされる。実は、秀吉には「秀勝」と名乗る子が3人いた。長浜で生まれた「石松丸秀勝」。その後、幼くして亡くなったようである。「於次秀勝」。織田信長の四男で秀吉の養子になる。長浜領には秀勝発給の文書が多く見られ、長浜支配はこの秀勝に委託されていたようだ。本能寺の変後、秀吉が主導した信長の葬儀では、信長の実子でもある秀勝が喪主を務めている。明智光秀の丹波亀山城を与えられるが、この地で病死。「小吉秀勝」。秀吉の甥にあたり、秀吉の養子となる。兄は豊臣秀次である。浅井長政・お市の三女「江」と結婚する。秀吉の朝鮮侵略に参加するが、朝鮮巨済島で病没。江は徳川秀忠に再嫁することになる。



 秀吉が開いた長浜では、日本三大山車祭の一つ「曳山祭」が行われる。長浜城主だった秀吉が男子誕生を喜び、祝いの砂金を町民に贈った。それに応えた町民たちが山車を作り、長浜八幡宮の祭礼に曳いたことが始まりとされている。秀吉はなぜか「秀勝」にこだわった。長浜時代の秀吉の子、石松丸「秀勝」は果たして実在したのだろうか?


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