近江史を歩く

02.秀吉と観音寺(芦浦観音寺)




 肥前名護屋城は、秀吉の朝鮮侵略の拠点として築かれた城である。大規模な城の周囲には、130以上の諸大名の陣屋が構築されていた。佐賀県を旅行した時、この場所で意外なものを発見した。諸大名の陣屋の配置図をのぞいてみると、名だたる戦国大名の中に観音寺詮舜陣屋跡の名前が見える。まさかと思ったが、間違いなく滋賀県草津市にある芦浦観音寺である。観音寺は1591年に秀吉から船奉行に任命され、朝鮮侵略(1592)に際しては、水夫の徴発と兵糧米の徴収・輸送を行っている。そして詮舜自身、秀吉の側近として名護屋城に出向いているのだ。



 信長が堅田を重視したのに対し、秀吉は芦浦観音寺を厚遇する。観音寺は琵琶湖湖上交通を管理する船奉行に任命され、湖南・湖東地方を中心とした蔵人地(直轄地)の代官を務めるなど、秀吉のブレーンとして活躍した。

 大津港の近くを車で走っていると、観音寺という地名にぶつかる。対岸の船奉行芦浦観音寺(草津市)が屋敷を構えたことからこの名前がついたそうだ。大きな蔵が立ち並んだ観音寺の巨大な経済力を、現在想像することは難しい。

 澤田ふじ子さんの小説「惜別の海」には、芦浦観音寺の賢珍、詮舜の兄弟が登場し、秀吉の朝鮮侵略が近江の民衆の目から描かれている。


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