近江史を歩く

24.惟喬親王と木地師の里(東近江市小椋谷)



 858年、文徳天皇急死。時の権力者藤原良房の娘を母とする惟仁(コレヒト)親王はまだ9歳。紀氏の娘との間に生まれた惟喬(コレタカ)親王は既に15歳だった。勝敗は明らか。藤原氏をバックにした惟仁親王が即位し、清和天皇となる。惟喬親王は29歳で出家。比叡山の麓、小野の里に隠棲し「小野宮」と呼ばれた。隠棲生活の後、54歳で死去。これが記録に残るものである。



 東近江市の君ケ畑にある大皇器地祖(オオキミキジソ)神社と蛭谷(ヒルタニ)にある筒井神社。祭神はどちらも惟喬親王である。惟喬親王が、わずかの家臣と共にこの山中に移り住んだという伝承が残る。金龍寺を建て、これを住居としたため「高松御所」と呼ばれた。惟喬親王は、この地で轆轤(ロクロ)を考案発明し、木地師の祖となる。轆轤を使い、鉢や盆などの木製品を作る人を「木地師」という。



「小椋谷」と呼ばれていた君ヶ畑と蛭谷は、木地師発祥の地となる。小椋姓の木地師が多くいる。君ヶ畑の高松御所と蛭谷の筒井公文所は、木地師を氏子として身分保証し、原木伐採の自由や山中通行の自由を与えた。全国各地の木地師は、惟喬親王の系譜をひく者とされたのである。江戸時代、このような貴人の伝承と由緒をもとに、職業上の特権を主張することは広く見られた。



 全国を行商した日野商人の主力商品は日野椀。日野椀製作に関わる様々な職業の人々の間でも、惟喬親王伝承が広がっていた。木地師・塗師・柿渋生産農民などは、経済的関係で繋がると同時に、惟喬親王伝承で結ばれていたのである。
 伝承が大きな意味を持っていた社会は、近代化の中で崩壊する。身分制度の廃止は、同時に特権の否定でもあった。木地師の職業的特権は否定され、生業の基盤は破壊された。少数の木地師が、今も伝統工芸の維持に努めている。



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