近江史を歩く

04.一休と堅田(祥瑞寺)




 京都では百王思想というものが囁かれていた。天皇家は百代で途絶え、足利氏がそれに代わるというものだ。それでは、その第百代天皇とは誰か?南北朝合一で天皇となった後小松天皇である。時の権力者は、「日本国王」を自称した足利義満。自分の息子を天皇にするという大胆な計画が進行していた。一歩手前で、義満は急死する。
 この後小松天皇のいわゆる落胤が、後の一休宗純。幼い頃から寺に預けられ、修業の毎日を送る。最初の師が亡くなった後、絶望の中、琵琶湖瀬田あたりで投身自殺をはかるが、止められる。その後、堅田にある現在の祥瑞寺の門を叩き、大徳寺の禅を受け継ぐ華叟宗曇の教えを受けることになる。



 堅田は湖上交通の要衝として栄え、自治都市が築かれた。殿原衆(地侍)と全人衆(商工業者・周辺農民)からなる。殿原衆で堅田湖族として名をはせた水軍の頭領が居初家である。居初家の庭園「天然図画亭」は、国の名勝に指定されている。堅田門徒として有名な浄土真宗の全人衆と違い、武士階層が多い殿原衆の間で広く支持されたのが臨済宗であり、一休宗純が修行した祥瑞寺もまさにそれである。
 22歳の時、華叟宗曇に弟子入りした一休は、25歳のとき宗曇の公案に「人生とは、煩悩がみちあふれたこの世から、煩悩を越えた来世へと向かうための、一休みのようなもの」と返答している。これが、「一休」という名の由来になる。27歳の時、堅田の湖畔でカラスの鳴き声を聞き、悟りを開く。カラスでなくてもよいのだろうが、絶望の淵で視点がずれる解放感。それでいいのだという、うなずきが一休みなのだろう。
 堅田での修行の日々は、一休にとってその後の原点であったといえる。


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