近江史を歩く

12.藤原仲麻呂と近江(近江国衙跡)


 奈良時代の凄まじい政治闘争の中で、絶大な権力を握ったのが藤原仲麻呂。中国の政治を模倣しようとし、恵美押勝と名乗るなど日本史の教科書ではおなじみの人物である。悪役っぽいイメージがあるが、最期は近江湖西で捕らえられ斬首される。仲麻呂、そして藤原氏と近江との間には意外に密接な関係が存在する。仲麻呂の祖父不比等の諡(おくりな)は、「淡海公」。そして、近江の国司には藤原氏の有力者が歴任している。



 今の滋賀県庁にあたる近江国衙は、大津市大江にあった。平城宮の配置などを真似ているようである。745年、近江守になった仲麻呂はその明晰な頭脳で異例の出世を遂げ、皇族以外で初めての太政大臣の地位にまで登りつめる。光明皇后や娘の孝謙女帝のバックアップのおかげとも言われている。



 しかし、光明皇后は亡くなり、孝謙女帝は道鏡に夢中になっていく。追い詰められた藤原仲麻呂は、反乱を起こすがあっけなく鎮圧される。仲麻呂は平城京を脱出した後、近江国衙で態勢を立て直そうとするが、瀬田の唐橋が落とされていて国衙には入れず、琵琶湖の西を敗走する。
 近江の三尾崎(高島町明神崎)での戦闘でも敗れ、船で湖上に逃げるが、結局捕えられ高島町勝野の乙女ケ池のあたりで、妻子従者ともども斬首される。この反乱を「藤原仲麻呂の乱」という。
 鎌倉初期に成立した歴史書「水鏡」には、仲麻呂の娘の悲惨な死がエピソードとして取り上げられている。



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