近江史を歩く

23.大友皇子その後(大津市弘文天皇陵)




 天智天皇の死。政権継承を大友皇子(天智の子)に譲り、吉野山中に出家していた弟大海人皇子は、密かに吉野を脱出し挙兵する。古代最大の内乱、壬申の乱(671年)である。押し寄せてくる大海人軍に対し、近江朝廷(大友皇子)側は瀬田橋の西に布陣し応戦するが、総崩れとなり敗走。大友皇子は、山前(ヤマサキ)の地で自害し果てる。山前がどのあたりなのかは、わかっていない。大津京を見下ろせる所だったのか?
 大友皇子が天皇に即位したという記述はない。しかし、幕末から江戸にかけての国学の高揚の中で、「記紀は即位の事実を覆い隠したのだ」という主張がなされ、明治政府は1870年、大友皇子に「弘文天皇」という諡(オクリナ)を与え、第39代天皇とした。大津市役所の裏側に弘文天皇の陵墓がある。



「義経は生きていた」の如く、英雄的な人物の生存伝説は多々存在する。大友皇子生存伝説の一つが、房総半島千葉県君津市の白山神社。大友皇子の住んだ小川宮、遺骸を納めた古墳などが語られている。他にも、愛知県、神奈川県などにも、「東下り」伝説が残る。
 非業の最期を遂げた人間は怨霊になりかねない。そこで、神として祀り、鎮魂する。大津には「大江6丁目」・「鳥居川町」・「北大路1丁目」に、御霊神社がある。いずれも祭神は大友皇子。鳥居川のものは、674年に与多王の指図で作られたとされている。与多王とは・・・。



 大友皇子の妃・十市皇女(トオチノヒメミコ)は、大海人と額田王の娘。十市にしてみれば、壬申の乱は夫と父が争ったことになる。十市は幼い三人の子と共に生き延びるが、7年後に急死。三人の子の一人、与太王は大友の姓を与えられ、大友皇子の菩提を弔う寺を建立。与多王の屋敷である田園城邑(田畑屋敷)を寄進したので、天武天皇により「園城寺」の名を授かる。この寺は「三井寺」として知られている。天智・天武・持統3代の天皇の産湯として使われた井戸があり、「御井(ミイ)の寺」と呼ばれたのが転じたものである。
 与太王が出家し、第5世住職となったのが法伝寺である。以後、63世の現在まで、天智天皇と大友皇子が祀られてきた。現住職も、もちろん大友姓。大津市西の庄にあるこの法伝寺では、大友皇子命日法要が今も続けられている。



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