近江史を歩く

16.近江聖人中江藤樹(高島市安曇川町)




 愛媛県大洲市の県立大洲高校。この学校は「中江藤樹邸址校」とも呼ばれる。中江藤樹が青年時代を過ごした屋敷址が学校の一角にある。後ろに見える大洲城には、中江藤樹の像があり、左に「孝」の字の刻まれた碑が見える。
 中江藤樹は、1608年に近江国高島郡小川村に中江吉次の長男として生まれる。9歳の時に伯耆米子藩の武士であった祖父の養子となり米子に赴く。その後、藩主の国替えと共にこの大洲に移住する。祖父の死去後、家督を相続。



 しかし27歳の時、脱藩し故郷の近江に戻る。母への孝行と健康上の理由。幸い追っ手は向けられず、郷里である小川村で、私塾を開いた。庭に大きな藤の木があったことから、藤樹書院と呼ばれる。身分の上下をこえた平等思想に特徴があり、武士だけでなく地元の農民や町民にまでその教えは広く浸透し、「近江聖人」と呼ばれた。



 さて、武士の地位を捨て、親への「孝」という大義に生きた近江聖人中江藤樹。果たしてそうなのだろうか?武士社会からドロップアウトした、苦悩する青年の自己実現とも見える。藤樹は官学である朱子学から、陽明学へとシフトしていく。藤樹の説く「孝」は親孝行ではなく、人間関係の根底にある普遍的な愛を意味する。藤樹の思想にキリスト教の影響を指摘する声も古くからあった。
 日本の陽明学の創始者とされる藤樹の思想は、大塩平八郎・吉田松陰へと連なっていく。陽明学は、人が心を溌剌と躍動せしめるなら、例え平凡でも、必ずそこに貴いものが存在すると説く。悩める青年中江藤樹の解答は何だったのだろうか?



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