近江史を歩く

18.近江天保義民一揆(天保義民碑)



 一揆はたとえそれが勝利しても、首謀者は処罰される。自らの命を捧げた人たちは、義民と呼ばれた。



 一揆が起こった天保13年(1842年)は、天保の大飢饉の直後で、5年前には、大塩平八郎の乱が幕府を震撼させている。1841年、幕府老中水野忠邦は、人事を刷新し幕政改革に着手する。有名な天保の改革である。幕府は逼迫する財政を立て直すため、検地を強行しようとした。
 野洲郡野村を皮切りに近江国の検地が開始される。検地竿を短くして測り直すのである。どうなるのか。名目の面積は増加し、そこから計算された村高は増加。つまり永久の増税である。しかも、賄賂など腐敗不正が跋扈していた。



 これに業を煮やした農民が立ち上がり、三上村庄屋土川平兵衛ら12人を指導者とした一揆が起こる。検地役人ら一行、三上村に到着し本陣を構える。「廻状」が村々に回り、一揆は杣川の中流、甲賀郡森尻村の矢川神社に集結。途中、検地に協力した庄屋宅を打ち壊し、三上村に滞在していた検地奉行の陣屋を取り囲んだ。集結した数は4万人とも。結局、検地奉行より「検地十万日延期」の証文が出る。完全勝利である。



 しかし、幕府の追求は厳しく、一揆に加担した人々は大津代官所で詮議を受ける。首謀者とみなされた土川平兵衛ら11名は、重罪人として江戸送り。3名は道中で病死、残る8名も獄死。11名以外にも、大津代官所における凄惨な拷問により絶命したものは数十名にも及んだ。天保義民一揆と呼ばれる。



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