近江史を歩く

15.小野篁と閻魔大王(守山市焔魔堂)




 守山市焔魔堂町。以前から不思議な地名だと思っていた。守山駅西の旧中山道を歩いていると、その閻魔堂(五道山十王寺)の前にやって来る。五道とは人間が修行の結果行き着く五つの場所で、その途中に十の関所があり十人の王がいる。その一人が閻魔大王なのだ。この寺の閻魔像を作ったのが小野篁(たかむら)であるとされる。
 実は京都にも閻魔堂がある。京都東山にある六道珍皇寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と、篁の木像が並んで安置されている。篁は夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという。



 小野篁とは、何者なのか。「わたのはら 八十島かけて こぎ出ぬと 人には告げよ あまの釣船」。百人一首にあるこの歌の作者が小野篁である。「大海原を漕ぎ出して行ったと、都の人には告げてくれ」と言っているのだが、行き先は流刑地隠岐である。
 篁は遣唐副使に任ぜられるが、病気を理由に乗船を拒否。挙句の果てに、遣唐使の事業を風刺する漢詩を作る。これを読んだ嵯峨上皇は激怒し、篁は官位剥奪の上、隠岐へ流罪となる。後に赦され平安京へ帰り、官職に復帰する。人物・学識・文才ともに傑出した存在だが、反骨精神の持ち主で「野狂」とも呼ばれた。
 大津市小野には、小野篁神社がある。小野妹子・小野篁・小野小町・小野道風・・・。「小野」は伝説と歴史の里であり、同時に重要なキーワードでもある。



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