近江史を歩く

11.豊臣秀次の悲劇(近江八幡)




 京都三条にある瑞泉寺。三条河原には、秀次悪逆塚と呼ばれる塚があり、秀次とその妻妾・子女30人余の遺骸が埋められていた。これを引き取り、その菩提を供養してきたのが瑞泉寺である。
 1591年、秀吉の嫡男・鶴松が死去。秀吉は甥の秀次を養子とし、秀次は関白に就任。しかし1593年に秀吉に男子(秀頼)が生まれると、秀次の地位は次第に危うくなる。結局1595年に謀反の嫌疑で高野山に追放され、その地で切腹させられる。
 しかも、秀次のさらし首を前に、妻妾・幼児など合わせて30余人が、三条河原で打首。秀次の首とともに河原に埋められ、塚が建てられたのである。事件の真相は不明だが、謀略に嵌められたと考えるのが妥当か。



 殺生関白という汚名を着せられた秀次であるが、近江八幡では評価が違う。18歳で近江の領主となった秀次は、安土城下の民を近江八幡に移し、城下町を開いた。楽市楽座を施行、八幡堀を琵琶湖とつなぎ、往来する船を寄港させる。まさに近江八幡開町の祖として、市民に慕われている。
 フロイス「日本史」には、「この若者(秀次)は伯父(秀吉)とは全く異なって、万人から愛される性格の持主であった」と記されている。



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