近江史を歩く

21.民衆の砦金ケ森(守山市金森)




 1931年、福井県武生市の工事現場で小さな丸瓦が出てきた。そこには、平仮名交じりの文字で恐るべき事実が告発されていた。「一揆がおこると、一揆千人を生け捕りにしました。その成敗は、磔・釜煎り・火あぶりです。あまりに惨いので一筆書き留めます。」織田信長軍の一向一揆に対する凄まじい弾圧の様子を、何者かが呪いを込めて瓦に刻み込み、350年後によみがえったのである。織田信長の天下統一事業の前に立ちはだかる最大の障害は一向一揆であった。そして、その拠点が寺内町(じないちょう)である。



 東山道守山宿から琵琶湖岸の志那港へは、志那街道が走っていた。金ケ森は、その途中にある重要な集落であった。この金ケ森が寺内町として成立するのは、1465年の大谷本願寺破却により、蓮如がこの地域に移り住むようになった頃である。蓮如を擁して金ケ森に立てこもった本願寺門徒は、比叡山の僧兵を打ち破る。史上初の一向一揆(1465)である。この時、金ケ森は「城」と呼ばれている。
 寺内町の要件とは、@親鸞の教えを共にする者が、A土塁・堀などの環濠をつくり、Bその中に道場を中心に町がつくられることである。寺内町金ケ森は、この時点で形成されていた。民衆の城、自治の砦である。やがて税の免除・営業の自由などの寺内町特権を獲得し、真宗門徒・手工業者・商人らからなる、民衆主体の町が形成されていった。
 元亀年間(1570〜73)に入り、天下統一へ進もうとする織田信長に対し、反信長統一戦線が形成される。反信長の最大拠点が、石山本願寺とそれに呼応する各地の一向一揆であった。信長軍は、根切り(皆殺し)による徹底弾圧と、寺内町解体の政治工作を繰り返す。



 1570年、金ケ森には湖南の反信長一揆衆が集まり、本願寺より川那辺藤左衛門秀政が派遣される。1571年・1572年の2度にわたる織田信長軍との攻防の末、織田信長は朱印を押した楽市楽座令を金ケ森に公布。志那街道を通行する総ての荷物は金ケ森に着けることを義務づけた。懐柔策ともいえる。現実には金ケ森は軍事的に解体され、自治都市・民衆の砦としての役割を終えるのである。
 江戸時代に入ると、草津宿から矢橋道経由で矢橋港に至る道が栄え、志那街道の役割も薄れていく。金ケ森もそれと共に衰えた。



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