近江史を歩く

14.徳川秀忠遅参(草津市常善寺)




 吉水御坊と呼ばれる法然の住房は、浄土宗布教の中心地であった。しかし、戦乱や火災によって焼失・再建が繰り返された。ここに本格的な伽藍建設を行ったのは浄土宗門徒であった徳川家康である。これが、現在の知恩院。そして、この知恩院三門は秀忠の時に完成している。
 1600年9月15日朝に始まった関ヶ原の合戦は、昼過ぎには決着が着く。しかし、この肝心な時に秀忠はいなかった。真田昌幸の抵抗に合い、関ヶ原の戦いに遅れた秀忠は、強行軍で中仙道をひた走った。そして家康本隊に追いついたのが20日、草津宿での事。この時、宿陣したのが常善寺である。実は家康もその前日の19日に常善寺で泊まり、20日には大津に出立している。



 常善寺は浄土宗の寺院である。知恩院が徳川家にとって有事の際の軍隊駐屯所の役割を持っていたように、常善寺もその敷地に兵が駐留したのであろう。今はその大きさを想像することはできない。政策的なものか、草津には浄土宗の寺院が多い。中でも、常善寺は草津御所と呼ばれ、室町将軍の宿舎となった所であり、江戸時代にも、草津宿の最も重要な寺とされていた。
 家康の長男信康は、武田家内通の嫌疑で、信長の圧力により切腹させられている。次男秀康は、豊臣秀吉の養子となるが家康からは嫌われていたようである。重大な失態にもかかわらず、三男秀忠は家康の跡を継ぎ、第2代将軍となる。遅参を巡って、家康と秀忠の間で、どのような言葉が交わされたのか。



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