近江史を歩く

20.蓮如と近江(大津市堅田)



「自分が死ねば加茂川に流せ」と親鸞は言った。現在の本願寺の壮大な伽藍を、はたして親鸞はどう見るのか。本願寺の礎を築いたのは、本願寺第8世蓮如である。



 京都東山、知恩院西側にある崇泰院には、「大谷本願寺故地」・「蓮如上人御誕生地」の碑が建つ。もともとは、親鸞の墓所が作られ、遺族が管理していたが、親鸞の曾孫の覚如が本願寺三世を名乗り、その墓所に本願寺を建てた。浄土真宗本願寺派の誕生である。以後、法主(留守職)は覚如の子孫が継いでいく。蓮如が留守職を継いだのは43歳の時(1457年)。蓮如は、比叡山延暦寺の支配から自立しようとする。これに対し、延暦寺は大谷本願寺を破却(寛正の法難)。蓮如は親鸞の像を抱えて近江の国へ逃れる。



 本願寺教団は金森(守山市)に城を築き合戦。これが最初の一向一揆、金森合戦(1466年)である。翌年、親鸞像を琵琶湖対岸の堅田・本福寺に移す。1468年、足利義政が造営していた花の御所の用材を堅田湖族が襲うという事件が起こる。怒った幕府は、堅田の領主である比叡山延暦寺に処分を要求。真宗の力を懸念した延暦寺は、ここぞとばかりに堅田を攻撃。蓮如は、親鸞像を持って大津に避難する。堅田の町は全焼し、真宗門徒らは船に分乗、沖島(近江八幡市)に逃亡した。蓮如は比叡山を見上げ、「恐ろしき山かな」とつぶやいたという。これを「堅田大責(かたたおおぜめ)」と言う。



 その後、蓮如は近江を去り、越前吉崎に移る(吉崎御坊)。ここを拠点に、真宗(一向宗)は急拡大していく。やがて、蓮如は京都に戻り山科本願寺を建立。三井寺に預けた親鸞像を迎えるばかりとなる。しかし、三井寺は首を2つ差し出せば返すと、無理難題をふっかけた。真宗門徒、堅田の源右衛門は、息子の首を切ると三井寺へと向かう。自分の首と共に2つ差し出すので、像を返してほしいと。三井寺は心を打たれ、無事に親鸞像は返されたという。大津市堅田光徳寺に「堅田源兵衛の首」像がある。真宗門徒の信仰の熱さを物語るものだが、これは美談なのか?



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