近江史を歩く

58.廃仏毀釈と日吉大社(大津市坂本)



 
 参道の両側にたくさんの石灯籠。神社境内から仏教的なものを放り出した名残である。明治時代初期の「廃仏毀釈」運動が、この日吉大社から始まった。明治新政府のスローガンは王政復古、祭政一致。民衆支配の柱として天皇の絶対性を確立していこうとした。「神仏分離令」が出されると、仏教は激しく排斥された。全国に広まった廃仏毀釈の嵐が静まった頃、灯篭も現在のように整然と並べられた。
 


 東本宮の裏手にある牛尾山(八王子山)。その山頂付近にある金大厳(コガネノオオクラ)と呼ばれる磐座(イワクラ)が、日吉社のルーツである。この近くに日吉神とその妃神を祀った。その後、天智天皇が大津宮を造営する時、大和の三輪明神を勧請したと伝えられる。大山咋神(オオヤマクイノカミ)とされる従来の日吉神は日吉二の宮として東本宮に、大物主神(オオモノヌシノカミ)とされる三輪明神は日吉主神として西本宮に祀られる。
 


 廃仏毀釈で、重要な仏像・仏具は持出され徹底的に破壊されてしまった。破壊したリーダー・樹下重国の名は「樹下神社」として残っている。破壊焼却された数千点の仏像・仏具などが残されていたとしたら、比叡山延暦寺以上に観光客で賑わう場所になっていたかもしれない。幾重にも塗り重ねられ、変質していったその基底に、近江の原初的な信仰の形が眠っているような気がしてならない。


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