近江史を歩く

53.近江将軍義晴(近江八幡市)



 
 日野富子は最愛の子・義尚(9代将軍)を近江鈎の陣で失った。10代将軍には、夫(義政)の甥・義材が擁立された。富子は細川政元と共にクーデターを決行。鎌倉公方の子・足利義澄を11代将軍に就けた。富子死後、義材は再び将軍に返り咲き、義澄は京を追われ近江国朽木谷さらに蒲生郡水茎岡山城に逃れた。将軍復帰を果たせぬまま近江八幡の西にある水茎岡山城で死去。義澄の子としてこの地で生まれたのが義晴である。
 

 
 細川家内紛の中、将軍職は彼らの政争の具とされた。復権した義材だが、細川高国によって解任され阿波国へ追放。高国は義晴を12代将軍に据えた。一方、細川晴元は義晴の弟を擁立し高国と戦った。細川高国敗北。義晴は近江国朽木に落ち延びる。朽木氏の居館に近い旧秀隣寺庭園は、細川高国が義晴をもてなすために作庭したもの。その後、観音寺城山麓にある桑実寺境内に幕府が移された(近江幕府)。朽木の時とは違い、奉行衆を引き連れた本格的な幕府の移転であった。義晴は六角定頼の後ろ盾でいったん京へ復帰するも、情勢は混沌。近江国坂本への逃亡を繰り返す。結局は近江穴太の宝泉寺で死去。享年40歳。
 


 銀閣寺の裏山あたりにあるのが中尾城址。義晴が京都奪回のため築き始めた城である。中尾城完成時に義晴はすでに重病であった。それでも義晴は果汁の粥をすすりながら進軍。最期の時まで京都奪還への執念を捨てなかったという。近江に生まれ近江に死んだ義晴。その現実的な経済感覚は、自分の「晴」の字を売り捌いたことに現れている。対象となったのは、武田信玄こと武田晴信、上杉謙信の兄長尾晴景、奥州伊達氏の当主伊達晴宗、山陰の大名尼子晴久など、枚挙に暇がない。


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