近江史を歩く

56.明智光秀の妻・煕子(大津市坂本)



 
 大津市坂本にある西教寺。織田信長による比叡山焼き討ちの後、近江国滋賀郡は明智光秀に与えられた。光秀はこの地に坂本城を築く。西教寺の復興も光秀の手によるもの。本堂前庭左手に明智一族の墓と供養塔がある。明智光秀の妻・煕子(ヒロコ)の墓の隣にある芭蕉の句碑。「月さびよ明智が妻のはなしせむ」(寂しい月明りのもとですが、明智光秀の妻の昔話をしてあげましょう)。芭蕉が奥の細道の旅を終えて伊勢の遷宮参詣をした時のこと。貧しい弟子夫婦のもとに泊まり、暖かいもてなしを受けた芭蕉は、感激しこの句を詠んだ。
 


 明智光秀と婚約した煕子(ヒロコ)。婚約後しばらくして煕子は疱瘡にかかり、その美しい顔を失った。それでも光秀は破談することなく煕子を娶る。浪人となり、困窮する生活。連歌会を催す金もなかった時、煕子は自分の黒髪を売り、光秀を助けた。光秀も側室を置かず煕子を大切にしたという。煕子の実像は不明である。光秀が重病となった際、看病疲れが元で病死したという説。本能寺の変後、坂本城落城のときに死亡したという説もある。
 


 芭蕉は敗北していった悲運の武将たちに心惹かれた。そして煕子の黒髪の話が好きだったようである。才能がありながら、出世できないことに悩んでいた弟子。芭蕉はその夜こう語った。「今は出世の芽がでてないが、あなたにはそれを支える素晴らしい妻がいるじゃないか。今夜はゆっくり明智の妻の黒髪伝説を話してあげよう」


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