近江史を歩く

52.鈎の陣と甲賀忍者(栗東市)



 
 武力で他人の所領を奪う行為を押領と言う。応仁・文明の争乱。諸国では押領が横行。近江の国。守護・六角高頼自ら押領で勢力を拡大。室町幕府は威信をかけても押領地の奪回を図らねばならない。9代将軍足利義尚自ら軍勢を率いて出陣。京の町は、青年将軍の雄姿を一目見ようと多くの人が集まった。幕府軍は琵琶湖の西岸坂本から山田・志那(草津市西部)に上陸。別軍は琵琶湖の南・瀬田を経由して六角の本拠・湖東へ。野洲河原で合戦が起こる。六角高頼は本拠の観音寺城を出て甲賀郡に退却。
 

 
 将軍義尚は坂本から琵琶湖を渡り、栗太郡・鈎(マガリ)の安養寺に陣を構えた。六角高頼は姿をくらまし、ゲリラ戦を展開。義尚は下鈎の真宝館(現在の永正寺)に陣を移し、ここに御所を建造。父・義政や母・日野富子のいない新天地で幕府の運営と権力の一元化を図ろうとした。事実上の「鈎幕府」である。しかし、長引く持久戦の中、義尚は遊興に耽り病に倒れた。母・日野富子の看病もむなしく、25歳の若さで陣没する。諸大名の軍勢も近江から退却していった。足かけ3年にわたるこの戦いを「鈎(マガリ)の陣」という。
 


 この時、義尚の陣に奇襲をかけ、神出鬼没のゲリラ戦を戦ったのが甲賀武士である。織田信長に席巻されるまでの間、六角氏の下で諜報・戦闘活動を行った。甲賀は六角氏の傘下に属しながらも「惣」と呼ばれる独自の自治組織を持った。その後、甲賀の地は織田信長軍に席巻され没落していく。関ヶ原の戦い。徳川家康に仕えた甲賀衆は功を上げ、家康は甲賀百人衆を編成。幕府直属の「忍び」として生き残ることとなる。「鈎の陣」は甲賀忍者のデビュー戦でもあった。



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