近江史を歩く

54.朽木マグダレナ(高島市朽木)



 
 朽木は滋賀県最西端に位置し、西は京都府、北は福井県に接する。鯖街道が縦断する街道筋として栄えた。鎌倉時代から江戸時代に掛けて朽木庄を支配していた朽木氏は近江源氏・佐々木信綱の流れをくみ、京都を逐われた足利将軍を迎えている。1570年、越前朝倉攻めで妹婿・浅井長政の裏切りにあった織田信長は、朽木経由で京都へ撤退した。これを手厚く迎えたのが朽木氏であった。本能寺の変後は秀吉に従い、関ヶ原の戦いでは東軍に寝返っている。その巧みな保身術で、朽木一族は旗本・大名として明治維新まで存続していくことになる。
 

 
 朽木マグダレナと呼ばれる女性がいた。京極高吉と浅井久政の娘・京極マリアの子である。兄・京極高次は浅井三姉妹の初と結婚。姉・竜子は豊臣秀吉の側室・松の丸として知られる。キリシタンの両親とりわけ母マリアの強い影響を受け、彼女は受洗しマグダレナと呼ばれた。マグダレナは朽木家18代当主・宣綱の妻となる。1606年、京都八瀬の館で死去したマグダレナ。京都に完成したばかりの新教会で盛大な葬儀が行われたとイエズス会の記録は伝えている。
 


 朽木宣綱は、マグダレナの菩提を弔うために秀隣寺を建立した。この地は足利義晴が京を追われ滞在した館のあった所で、現在「旧秀隣寺庭園」として残っている。秀隣寺自体は移転を重ね、現在は朽木村野尻に再建されている。マグダレナの死後、朽木氏が寺を建立し墓を建てたのはなぜか。朽木家と京極家。いずれもキリシタンに親近感を持つ危険勢力である。特にマグダレナのキリシタン葬は、両家の将来を左右しかねないものだった。寺と墓により幕府の宗教政策への忠誠を示さねばならなかった。かくして、「朽木マグダレナ」は歴史の闇に消し去られることとなった。


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