近江史を歩く

57.湖国の祈り竹生島(長浜市)



 
 琵琶湖の北部に浮かぶ竹生島。神の棲む島とも呼ばれ、古くより信仰の対象であった。島の南部には、都久夫須麻神社と宝厳寺がある。このように「寺」と「神社」に区別されたのは、明治初期の神仏分離令以降のこと。平安時代から近世までは神仏習合の信仰が行われていた。戦国期には、小谷城主・浅井久政が、子・長政への家督委譲を目論む家臣団によってこの島に幽閉されたこともある。
 


 平安時代の記録に都久夫須麻神社の名が見える。祭神は浅井姫命(アザイヒメノミコト)。浅井氏の氏神ともいわれ、湖水を支配する神とされた。平安時代末期頃から、この神は仏教の弁才天と同一視されるようになり、弁才天の霊場・宝厳寺と都久夫須麻神社は一体化していく。長浜を築いた秀吉。豊臣一族も竹生島を篤く信仰した。幾度かの大火の後、豊臣秀頼は竹生島を復興。宝厳寺唐門は豊国廟の門を、都久夫須麻神社本殿は伏見城の一部を移築したと言われる。伏見桃山文化の香りがする。
 


 明治新政府の神仏分離政策。弁才天社は平安時代の「都久夫須麻神社」という社名に変更するよう強要される。仏教寺院としての宝厳寺は廃寺の危機を迎えた。寺側は「弁才天」は仏教の仏であると主張して譲らなかった。結局、竹生島の信仰施設は、「宝厳寺」と「都久夫須麻神社」に分離され現在に至っている。神仏習合は一般的な古来の習俗。神道だろうと仏教だろうと、庶民の素朴な信仰には関係なさそうだ。竹生島参詣へ、今日も大勢の人たちが訪れる。


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