近江史を歩く

42.中世の自治村落「惣」(長浜市菅浦)



 
 中世の自治村落を「惣(ソウ)」という。近江は、この自治組織が最も早く進んだ地域である。その一つが、琵琶湖最北端に突き出た葛籠尾崎(ツヅラオザキ)にある菅浦(スガウラ)集落。1917年、菅浦の鎮守・須賀神社から千二百点余の中世文書が出てきた(重要文化財「菅浦文書」)。この文書群によって中世の自治組織「惣」の実態が明らかになってきた。土地の狭い菅浦は、古代から中世にかけて漁業と舟運の村であった。平安時代には大浦荘の一部とされたが、鎌倉時代に入ると大浦荘から強引に独立し、竹生島領となる。



 1295年、大浦荘との境に位置する日指(ヒサシ)と諸河(モロコ)の田畑を巡って両村が対立。長期にわたる争いの中、菅浦の人々は団結を強め、外部支配に屈しない自治組織を作り上げた。室町時代に入ると「自検断(ジケンダン)」「地下請(ジゲウケ)」というほぼ完全な警察権・徴税権を獲得した。また、自治を円滑に遂行するために「惣の掟」「置文」などの村落法を制定し、「乙名」「沙汰人」と称する宿老を選出し村政を運営した。菅浦村は中世より西村と東村に分かれていた。近世に入っても代官や村方三役といった役人の他、中老(忠老)衆が東西各村に同数存在していた。中老は中世惣村における宿老の名残りと考えられる。菅浦村の西端と東端には、それぞれ「四足門」と呼ばれる薬医門が構えられている。かつては北側二箇所にも門があり、「四方門」とも呼ばれ村の境界としていた。



 集落の北側には、須賀神社が鎮座する。祭神は淳仁天皇。淳仁天皇は天武天皇の皇子で、藤原仲麻呂の力で孝謙天皇から譲位を受け即位した。しかし、764年に仲麻呂の乱が勃発すると、仲麻呂と関係が深かった淳仁天皇は皇位を剥奪され淡路島に流される。菅浦では、淳仁天皇は菅浦に流されたと伝わっており、須賀神社の背後には淳仁天皇の墓所とされる船型御陵が残っている。「惣」に基づく自治意識は根強く継承され、路地などの集落構造や石垣などの水害対策も残っている。狭隘な土地に適応して築かれた生活空間、琵琶湖や山林などの生業の場、そして自治の伝統を持った集落景観などが良好に残ることから、2014年、菅浦は「重要文化的景観」に選定された。



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