近江史を歩く

22.大津事件の謎(大津市京町)





 1891年5月11日昼過ぎ、日本を訪問中のロシア皇太子ニコライが京都から琵琶湖への日帰り観光で、大津町内を通過中のことである。警備中だった滋賀県警巡査津田三蔵に突然斬りつけられ負傷する。大津事件である。
 ニコライは、シベリア鉄道の起工式典に出席するためウラジオストクに向かう途中、日本を訪問していた。長崎、鹿児島を経て京都に入る。ニコライが鹿児島を訪れたことが、ある噂を呼ぶ。人力車に乗ったニコライに津田はサーベルを抜いて斬りかかり負傷させた。ニコライは人力車から飛び降り逃げるが、津田はあくまで追いかける。しかし、ニコライに随伴していた人力車夫に両足を引き倒され、押さえられた。明治天皇は京都まで出向き謝罪するが、ニコライは東京訪問を中止し帰還の途についた。



 大国ロシアへの不祥事は、政府を恐怖に陥れた。犯人の処刑を求め、政治的圧力がかかった。大津地裁での公判、大審院長・児島惟謙は圧力に屈することなく、津田を死刑ではなく無期徒刑とした。児島惟謙は、「司法権の独立」の象徴として教科書に名をはせる。しかし、最近の研究によると、それほど単純ではないようだ。むしろ、地裁判事などがきちんと筋を通したためと推測されている。



 それにしても、津田の犯行の動機は謎であり諸説飛び交う。「皇太子の観光は敵情視察であり、天皇謁見前の各地遊覧は不敬」と津田は陳述するが、どうも曖昧である。津田は下級士族の子であり、西南戦争に従軍し勲七等を得ていた。この事件当時、死んだはずの西郷隆盛が、ロシア皇太子と共に日本に帰ってくるという奇怪な噂が広がっていた。急激な近代化や欧化主義に反感を抱く国民感情が背景にある。西南戦争での死体の山を回想した津田は、この噂に懊悩したようである。「西郷が帰れば、勲章も剥奪され・・・」。津田は次第に常軌を逸した妄想に囚われ始める。
 その後ニコライは、ロシア皇帝に即位。ロシア革命が起こり、1918年に銃殺される。津田三蔵は事件のあった年、北海道釧路に収監されるが、3ケ月も立たない9月30日に死去。伊賀上野の大超寺に、人目を忍ぶように墓がある。


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